2015年09月10日

高気密・高断熱の空調換気システムは根源的な問題に遭遇している (中)



さて、前回はPVCのトリプル・サッシが売出されて、環境はR-2000住宅の普及期の時のように、かなり良くなってきていると書いた。
つまり、208〜210のスタッドを使わなくても、206の壁で、断熱性能が0.023Wの硬質ウレタンを工場で充填すれば、Q値が0.8W程度の住宅が簡単に取得できる。
硬質ウレタンの充填断熱だと、すでに準防認定を取っているところがあり、カネはかかるけれども、それほど認定を取るのは難しい話ではないはず。
そして、私はA&Mカーペントリー社の両面OSBを張り、パッシブハウスを真似て内側の石膏ボードの裏側に38ミリの空間をとって、この部分で配線・配管を行う方式に 痛く感動している。
つまり、壁を貫通しないので、ロスが少ない。
それと、両面にOSBを張っているので、実質的な壁倍率は7〜8倍という認定を すでに実大実験でとっている。

国交省は、RC造の関係から、実質5倍以上の壁倍率は認めてくれない。
しかし、私は何度も書いているように、中越の震度7という直下型地震の烈震地の実態を、4度も足を運んで見てきた。
豪雪地のために、4寸とか5寸という太い柱とスジカイを使ったところの激震地で、なんと90%の住宅が倒壊していた。
倒壊を免れたのは、外壁に構造用合板を使ったトステムのスーパーウォールだけ。
もっとも、こうした激震地にツーバィフォー工法など、ハイカラな工法は普及していなかった。
このため、外壁に合板を使った工法は、スーパーウォールのみ。
そのスーパーウォールが、一つも全壊していなかった。
たしかに、すごいことだった。
しかし、すごいとばかり言っておれなかった。 なぜかと言うと、全壊はしなかったが、軒並み気密性が失われ、前の道路を走る車の音が、全部聞こえるようになっていた。
施主は、その音に悩まされていた。

これを見て、私は震度7の直下型の地震に耐えるだけではダメだということを悟った。
つまり、国交省が推奨する震度5倍の耐震性ではなく、実質震度7〜8倍の耐震性を持っていないと、地震国日本では安心出来ないという事実。
しかし、震度7〜8倍という耐震性を持った住宅が日本に存在するのだろうか?
この疑問を、すべての皆さんが持つはず。

私のホームページのビルダー欄に《北信越》の項目がある。
そのなかに、「自然の住まい社」 という長野・原村に本社を持つ小さな会社を紹介している。
年間受注戸数はせいぜい2〜3戸程度。 しかし、いずれも大きな家で、坪単価は約100万円と高く、誰でも紹介するというわけにはゆかない。
しかし、今はやりのCLT (クロス・ラミネーテッド・ティンバー) を20年以上も前から手掛けている。しかも、オーストリアのトーマ社長は、どこまでも自然素材にこだわり、数枚のラミネートを絞めるのに、接着剤を一切使っていない。
全て無垢の木のボルトで絞めている。 しかも、壁・床ともに厚みは17センチ。 これに内装は塗壁仕上げというから、拘っている。
まったく、ほれぼれする内容。 
この住宅が、今から20年ぐらい前に、日本で8倍の壁倍率をとったというからすごい。
見たところ、間違いなくどっしりとしていて、これだと震度7の直下型であれ、4年前の3メートルを超える津波にも十二分に耐えられると納得させられた。 
こんな木造住宅が、日本にあるのですね。

これに感心していたら、実大試験で、実際の壁倍率7〜8倍持っているというA&Mカーペントリーのパネルを見せられ、これまたビックリした。
206の両面にOSBボードを張り、工場で硬質ウレタンを充填する。 このウレタンそのものが固くて強度を持っているらしい。 また、硬質ウレタンの充填断熱材は、準不燃材を取得しているメーカーがすでにあるので、カネさえかければ準不燃材になるはず。
そして、感心したのは、ドイツのパッシブハウスに習って、内部のボードの下に38ミリの空間を設けて、このスペースを使って配線・配管工事を行っていたこと。 つまり、やたらに外壁を貫通していないので、C値0.3cu/u以上の気密性能が担保出来る。
そして、外壁に張る石膏ボードと、内壁の石膏ボードは、どこまでも耐震性面ではオマケ。
現場への配送と建て上げが可能なら、出来るだけトリプル・サッシ込みの一枚パネルとしたいと言っているから、強度的には最高レベル。
しかし、上記・自然の住まいのような拘りはない。 もちろん、OSBを両面張りしているのだから、ノン接着剤というわけにはゆかない。

ただ、このトリプル・パネル込みの価格が、予想以上に安く、現場の手離れがよいことに私は惹かれた。 しかし、モデルハウスはともかくとして、こんな重装備の高気密・高断熱住宅だから、年間数棟程度では採算面で合わない。
トリプル・サッシの購入1つをとっても、やはり年間30〜100の需要をまとめたい。
私が第一線にいたら、絶対にモデルハウスを建て、消費者を巻込み、 i-smart の対抗商品に育てているはず。
しかし、需要をまとめようとか、モデルハウスを建てようとかというビルダーがなかなか現れてこない。 私も、いささかシビレが切れてきた。
これ以外の、別の道を探さねばならないのかもしれない。



posted by uno2013 at 15:36| Comment(0) | 産業・経営 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月05日

高気密・高断熱の空調換気システムは根源的な問題に遭遇している (上)



高気密・高断熱を目指しているビルダーだけではなく、消費者の方も最近は、どちらの方向へゆくべきかのか? という根源的な問題にぶち当たっているように思えてならない。
他人様はともかくとして、私は完全に混迷状態。
数年前までは、楽観的な見通しを持っていた。
R-2000住宅で、日本の住宅にフィットする完全なセントラル空調換気システムが、完全に構築出来ていた。
後はQ値の性能に併せて、空調機器の性能を落とし、冷暖房にかかるイニシァル・コストとランニング・コストを低減させてゆけば良いだけだと安易に考えていた。
そして、9年前に北海道住宅産業新聞の視察団に加わって、スウェーデンとドイツの新しい住宅視察にに参加した。  
この時は、どちらかというとハンス・エーク氏がスウェーデンの東海岸のヨーテボリ市に開発したタウンハウス団地の視察が主目的だった。
これは、それほど参考にならなかった。
むしろ、ドイツ・ベルリンへ移ってからの、RC造のロックウールとPVCペア・サッシによる断熱改修工事のスケールの大きさや、その徹底ぶりに感動させられた。 しかし、日本でこのような大規模の公営・公団住宅の改修工事か行われるのは、何十年か先になるだろうと、絶望的な気持にさせられて帰ってきた。 
つまり具体的な収穫は、ほぼゼロだった。

これではいかんと、7年前の暮れにエコ・トランスファー・ジャパン社のバウマン社長にお願いして、昇龍の勢いであったパッシブ研究所をはじめとして、断熱・サッシ・暖房・住宅会社の各メーカー・流通業者・住宅展示場、2ヶ所以上建築現場の実態調査が出来るルートを開発していただいた。 
そして、私を含めて7人の仲間に呼びかけて、バウマンさんの運転と通訳で、ワゴン車でドイツとオーストリアを徹底的に調査してきた。
この調査で多くのことが分かった。

まずなんといっても、ファイスト博士が起こしたパッシブハウス研究所が、勉強になった。
博士は、建築価格がやたらに高くなるので、最初から 「ゼロ・エネルギーハウス」 を狙うのを意識的に避けていた。
屋根・天井及び外壁のU値は0.15Wでよいとした。 これだったら、東京周辺でも簡単に出来る。
つまり、パッシブハウスはエネルギーの消費量を15kWh/uとした。 大変に賢明な選択。
そして、RC造の中層マンションや賃貸住宅を見て驚かされるのは、ドイツの住宅は 「原則として地下室を持っていること」。 この地下室は、物置や機械室として使われている。 
これは、南3階建、北2階建のパッシブハウス研究所も例外ではない。
そして、地下を掘る時に、必ず地下層に長さ30メートルのアースチューブを敷設する。 このために、外気が氷点下以下になっても、アースチューブを通じて10℃以上の温度が得られる。 そして、ドイツのパッシブハウスでは、このアースチューブを絶対必要な最低条件としてきた。
そして、ファイスト博士が力点を置いたのはサッシと換気の開発。
私が最初にR-2000住宅に取組んだ時には、世界で一番すぐれたサッシでも、U値は1.8Wに過ぎなかった。
トリプルサッシがやっと開発されたばかりで、それでも1.6Wもあれば上等だった。
そんな時、ファイスト博士は 「サッシのU値は0.8Wであるべし!」 と叫んだというから、狂気の沙汰。 しかし、博士はサッシメーカーの技術者を呼んで、PVCの型枠を変え、PVCやウッドサッシに断熱材を装填するなどして、「U値0.7Wのサッシを開発した」 というから、「お見事」 というしかない。

そして、換気はどこまでも 「ダーディソーン」 からの排気を考えていたので、顕熱交を前提としている。 日本の換気メーカーや住宅メーカーは、ビル用の全熱交を前提にしてしているので、一条工務店の排気計画に見られるように、全くおかしげなものにならざるを得ない。 よくあんな全熱交を ダイキンともあろうところが、喜んで仕様書発注を受けているものだと、情けなくなってくる。
日本の学界と官界、それと消費者は完全にバカにされている。
そして、7年前の段階で、PAUL社の92%の熱回収のシステムをはじめ、熱回収率90%以上の機種の顕熱交が数点展示されていた。 それを見て、日本のメーカーが開発してくれないなら、90%以上と熱回収率の高い機種をドイツから輸入するしかなかろう、と考えていた。
そして、先ほどドイツの家屋は例外なく地下室を持っていると書いた。 冬期は外気が氷点下以下になるので、アースチューブの設置がパッシブハウスにとっても不可欠の条件と書いた。
ただし、ドイツでは冬期はアースチューブを使うが、春から秋にかけては一切アースチューブは使わない。 アースチューブを封鎖して、そのまま外気を導入して換気している。
それを実感させてくれたのが、60戸以上も大型のモデルハウスを展示していたドイツ・ミュンヘンの総合住宅展示場。 それまで、スウェーデン・ストックホルムの住宅展示場は見ていたが、
これは夏場の小さなセカンドハウスの展示がほとんどで、断熱や気密・換気などで参考になるものは皆無。
これに対して、ミュンヘンの60戸は見ごたえがあった。
そして、途中から気が付いたのだが、すべての家の外側に金属製のブラインドがついていて、夏の直射日光の侵入を避けている。 そして、7年前だが、クーラーを設置している住宅は、これまた皆無だった。 
つまり、冬期が雨期で、夏が乾期のドイツでは、夏は相対湿度が40%以下で、直射日光さえ遮れば、室温が25℃を超えることはめったにない。

このことを痛感させてくれたのは、フランクフルトの高校教諭の新宅を訪ねた時。
驚いたことが2つあった。
1つは、床がしっかりしていて、2階音が階下へ響かなかったということ。
もう1つは、ドイツ人は西日を大切にしていて、早く家へ帰って、家の西側についている長い屋根ブラインドを架けて、一家での夕食を楽しんでいる。
日本では、いくら9月になったとしても、西日の当るところでバーベキューを楽しむことは出来ない。 汗ダクになるし、虫が飛んでくるわで、外で夕食を楽しむなどということは想像すら出来ない世界。 それが、ドイツでは最大の楽しみというから、過乾燥の冬と、高温多湿な夏を抱えている日本では、自然条件がまるきり違うと言うことに、改めて気付かせられた。

さて、話をR-2000住宅に戻そう。
私は、カナダの資源エネルギー省の連中から期待されて、日本でR-2000住宅を軌道に乗せるために、大変な思いをさせられた。
一番困ったのは、Q値が1.4Wという断熱性能の担保。
気密性能の0.9cu/uは、大手と違い直施工をやっていたから何とかなった。 しかし、206の外壁スタッドだと、当時のグラスウールでは、Q値が1.6Wにしかならず、1.4Wはムリだった。 つまり、208のスタッドを用いて、一杯に充填断熱材を詰めない限りR-2000住宅にはならない。
つまり、価格が40坪であってもセントラル空調換気システムを装備すれば、70万円/坪で納まってくれず、どうしても80万円/坪台になってしまう。
そういった価格帯でも、喜んで買ってくれる層は確かにある。
初年度に、R-2000住宅だと威張れる性能住宅が2戸は売れた。 しかし、それ以上は無理。
やはり、サラリーマンが買える価格にしないと、普及は覚つかない。
そこで、小細工を施した。 R-2000住宅の性能を持つ住宅をSESA (Super Enargy Super Amenity) とし、Q値1.6Wの住宅をSEA (Super Enargy Amenity) とコジつけて売り出した。 そしたら、SEA
が何とか20戸は売れた。 その成果を持って、カナダで威張って報告した。
この肩身の狭いSEA時代は、2年余続いたと思う。

その時、神風か吹いてくれた。
PVCサッシのダブル・サッシが売出された。
これが安売り競争で価格が下がり、後でメーカーに聞いたところでは、一部には定価の1割とか2割という信じられない数字が提示されたらしい。
私のところはせいぜい4割程度だったと思う。 しかし、このPVCのペア・サッシの出現で、私のところだけでなく、北海道・よねくらホーム、仙台・北洲ハウジング、群馬・マイスターハウスなどか、206材を用いて100%のR-2000住宅専業ビルダーに脱皮出来た。
一頃のR-2000住宅は、それこそ肩で風を切って歩いていた。

それに近い状況が、今トリプル・サッシで起こりつつあるのではないかというのが 私の認識。


posted by uno2013 at 12:09| Comment(0) | 産業・経営 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

この20年間のデフレ下で、焼酎メーカーのトップなった霧島酒造



馬場 燃著「黒霧島物語‥‥宮崎の弱小蔵元が焼酎王者になるまで」(日経BP 1500円+税)

黒霧島.JPG

この本を紹介しょうなどとは、露だに考えていなかった。
テーマーが、私が大好きな焼酎。 しかも、内容があまりにも斬新で面白かったので、是非皆さん方にも紹介したくなった。

ご案内の通り、私は自称焼酎党。
「まず、ビールで乾杯してから、ワインか焼酎か日本酒に移る」 という人が多い。
私は、ツーバイフォー協会の宴会の席上で、ビールやワイン、日本酒などを奨められるままガブ飲みして悪酔いし、駅のベンチで最終列車が行き過ぎても起きられなかったという醜態を演じたことがある。
以来、ビールや日本酒をチャンポンで飲むことを厳しく自戒して禁じてきた。
そして、食事の時はワインだとグラス2〜3杯までを限度とした。
また、宴席の場合は最初は韓国の眞露 (JINRO) 一本槍とした。 しかし、眞露はどこにも置いてあるとは限らない。 そこで、途中から焼酎と泡盛に変えた。
そして、私は焼酎であれば、エチルアルコールの甲類の酎ハイであろうと、芋や麦あるいはソバ、トウモロコシやなどの農産物を原料とする乙類であろうとも構わない。 
価格も、安いもので十分。 残念ながら焼酎の味が分かるほど、舌が肥えてはいない。 早い話が、寝酒として効き目さえ発揮してくれればよいと考えているだけ‥‥。
ともかくビールや日本酒は太るし、カロリーが高すぎて身体に良くない。 しかも悪酔いがするので、以来ほとんどと言ってよいほど、口にしていない。

この焼酎党宣言は、思わぬ効果を上げている。
それは、親戚や友人が送りものをしてくれる時、迷わなくても済むようになった。
つまり、「焼酎でさえあれば、何を送っても喜んで飲んでくれる」。 ということが浸透してきた。 「何を送ったら喜ばれるか」 と、あれこれと考えたり、迷う必要がなくなってきたということ。 
ただ、アルコールに弱い女房殿は、送りモノと言うと 「焼酎」 だと分かっているので、いささかご機嫌が斜め気味。 しかし、最近は割り切れてきたらしい。
それと、どんなに高額な焼酎を送っても、やたらと中小メーカーの数と商品の種類が多いので、飲む本人がどれほど価値のあるなものを貰ったのか 「その有難さが、さっぱり分からない」 という嫌いはあるのだが‥‥。

その焼酎だが、この本によると今まで 「第1次から第3次まで」 の3回のブームがあったと書いている。 それまで、日本の焼酎は約500年の歴史を持ってはいるが、鹿児島の一部で嗜まれていたローカル製品に過ぎなかった。
第1次ブームは1970年代だった。
薩摩酒造が、人気落語家を使い、CMで 「ロクヨン (6−4)」 という飲み方を提案して、市場を一挙に3倍に急拡大させた。 つまり、コップに6割の焼酎と、4割のお湯を注ぐ新提案。 
この提案にハマって、「焼酎=芋焼酎=白波」 と言う概念が一般化した。
そして、1973年には宮崎県の雲海酒造が、芋ではなく原料にソバを用いた 「雲海」 を開発して発売。 香りが柔らかいとの評判が立って、全国的に認知されるようになってきた。
つまり、コメを原料とする清酒は長い歴史を持っているが、焼酎がブームとなって全国区になったのは、せいぜい40〜50年程度の歴史しかない。

そして、第2次ブームは、1979年に誕生した大分の麦焼酎 「いいちこ」 を嚆矢とする。
清酒メーカーであった三和酒類が、新しくエントリーして、「ほぼ無臭で、飲みやすさ」 を売物にしてブームを起こした。 「下町のナポレオン」 は東京にも登場して、焼酎と言えば 「麦焼酎」 と言うイメージを確立した。 これが1980年代の第2次ブーム。
この三和酒類の「いいちこ」に前後して、同じ大分の二階堂酒造が、麦焼酎 「二階堂」 を発売してブームを煽った。
そのころ、私は大分の地場ビルダー・ベツダイと深くかかわっていたので、よく大分まで出かけた。 そして、自然に麦焼酎に馴染んでいった。 たしかに芋のようなクセがなく、抵抗感がまったくなかったので簡単に馴染めた。。
また、宝酒造の 「純」 が大ヒットしたのもこの時期。
甲類の 「酎ハイ」 や 「サワー」 が若者に拡がって行った。 
ホテルなどの自販機には麦焼酎がなく、酎ハイが置いてあったので、私も寝酒としてかなり活用させてもらった。

さて、この第1次ブームや第2次ブームの時に、この著の主役である霧島酒造の名は一切出てこない。
しかし、この本によると、今から99年前の1916年 (大正5年) に、江夏吉助が、芋焼酎の自社での製造・販売に踏み切ったと書いてある。 来年で゛創業100年を迎えるという名のある古い芋焼酎屋さん。
ところが、この初代の吉助氏は、何歳の時に芋焼酎の製造・販売に乗り出したのか。 その商売はうまくいったのか。 売上はどの程度だったか。  また何歳の時に息子に商売を譲って隠居したのか、あるいは不慮の死を遂げたのか‥‥についての肝心の記述が一切ない。 ただあるのは、鹿児島の北西部の市から取寄せていた芋焼酎の販売が思った以上に好調だったので、自分で製造・販売に乗り出したと書いてあるだけ。
せめて販売本数や死んだ年ぐらいは、取材した者の責任で記しておくべき。 著者は日経の記者で、日経BP社に出向中にこの著をモノにしたらしい。

初代の江夏吉助氏のことにはほとんど触れていないが、2代目の江夏順吉氏については詳しく書かれている。 現東大の工学部を1938年に卒業して三井石油合成に入社。 途中陸軍に召集されたが、「石炭から石油を造り出す‥‥」という特命を受けて三井石油に戻されたが、特命は成功しなかった。 そして、敗戦。
順吉が戻った故卿は荒れていた。 芋は貴重な主食で、焼酎も割当制だった。 旧式の設備で造る芋焼酎は、畑で造られる芋そのものの品質が悪かったこともあり、大変にまずい焼酎だった。
「乙種の焼酎は、潰してはいけない。 そのためには品質の向上が欠かせない。 芋焼酎の品質向上を、自分の一生のテーマにしょう」 と順吉は考えた。
そして、1949年に先代の個人免許から法人免許に切替え、霧島酒造を正式に発足させている。
1960年ごろ、鹿児島には500人ほどの杜氏がいた。 もろみづくり、蒸留などの一連の過程での温度管理、芋焼酎の仕込みにはこうした杜氏の経験と勘が頼りだった。 しかし、東大の工学部出身の2代目は、こうした杜氏にオンブしない手法を開発していった。
2代目順吉の口癖は、次のようなものだったという。
「焼酎造りは難しくない。 簡単な作業。 しかし、おいしいものを大量につくることは、大変に難しい」。
家内工業で造る芋焼酎のメーカーは、当時宮城県内だけで120社もあった。 そのほとんどが、年間生産量が10〜20万本 (1升ビン換算で) にすぎなかった。 霧島酒造も、従業員は20人程度の弱小メーカーに過ぎなかった。

しかし、機械を前にすると、「人格が変わる」 と言われるほど、順吉はものづくり、機械作りに没頭していった。
最初にやったことは、戦時中に没収されることを怖れて、自宅の庭に埋めていた20キログラムのスズ40個を掘り出し、スズの延べ板を加工してパイプや冷却塔を製造し、木製の蒸留機を改造した。 原料の芋を仕込むのには蒸気と電気量の使用量が増えるので、いもを細かく砕いてから仕込む 「ダイジェスター方式」 を考案した。 効果は抜群でそれまで1週間かかっていた発酵期間が3日に短縮された。 しかし、生臭い焼酎が出来て、この手法はすぐに諦めた。
また、発酵タンクの容量を、一気に30倍に拡大するということもやった。
また、黒麹から白麹への大転換も行った。
1961年には自動製麹装置を導入し、麹が何の苦労もなくつくれるようになった。
そして、1963年には焼酎業界の先駆けとして大型の最新鋭工場の建設に乗り出した。
この大型工場建設に乗出せたのは、地下水掘りに成功したことが大きかった。 活火山の桜島と霧島山の間に位置する都城市には、大量の地下水を貯めているはず。 そこで秋田からボーリング業者を呼んできて、工場内を掘らせた。 そしたら地下75メートルで固い岩盤に突き当たった。
ボーリング業者は逃げ腰になった。 その固い岩盤の突破を命じたところ、92メートルの地下から大量の綺麗な水が溢れてきた。 近所の人が生活用水として使ってもあり余るほどだった。

しかし、物造りに拘った2代目は、営業に対しては冷淡であった。
「よい焼酎は、営業をやらなくても絶対に売れる。 絶対に東京へ出かけて勝負して見せる」 という信念があった。
そして、晩年は機械熱が冷めて、ブレンドの必要性を認識させられ、「ブレンド熱」 の塊に変身した。 しかし、その折角の優れたブレンドも評価してくれる人々はほとんどなかった。
順吉は、跡取りとして1944年生まれの長男の隆一郎を考えていた。 慶大出の180センチ以上もあるスポーツマンで、誰もが3代目として認めていた。
その3代目予定の隆一郎が、なんと1992年にC型肝炎で48歳の若さで急逝してしまった。 順吉の嘆きは大きかった。
そして、2代目順吉も4年後の1996年には腹膜炎であの世へ。  享年80歳。

同社の売上高の推移を見ると、1970年が1升ビン換算で約200万本。 それが1996年には約900万本へと伸びている。24年間で4.5倍になっている。
この数字だけを見ると、2代目は良く頑張ったと言える。 しかし、この間に第1次と第2次焼酎革命が起こり、霧島酒造のシェアと人気は大幅に下落していた。
そして、2代目と3代目が確実だと目されていた2人に急逝され、急遽次男の夏目順行氏が社長に、3男の夏目拓三氏が専務に選ばれた。
この若い2人が、白麹を再び黒麹に変え、新開発した「黒霧島」 を武器にして幾多の難関を突破して第3次焼酎ブームを巻き起し、業界に君臨してゆく。 
2012年には売上高が約520億円を突破し、三和酒類を抜いて焼酎業界のトップの座についた。
そして、社員数は約500人にも増え、2014年の大卒の応募数は900人にもなり、このうちから29人が採用されるまでになってきている。
そして、「シロキリ」 「クロキリ」 「アカキリ」を中心に女性好みの新商品が陸続と開発され、東京オリンピック時の2020年には1000億円企業になっているだろうと言われるまでに‥‥。
中でも、利益率が自動車などの数パーセントではなく、2桁台を維持しており、純粋国産材の原料手当ての難題も見事にクリアーしている。

まさに、一読に値する中堅企業大躍進物語。


posted by uno2013 at 14:01| Comment(0) | 産業・経営 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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