2015年08月25日

この20年間のデフレ下で、焼酎メーカーのトップなった霧島酒造



馬場 燃著「黒霧島物語‥‥宮崎の弱小蔵元が焼酎王者になるまで」(日経BP 1500円+税)

黒霧島.JPG

この本を紹介しょうなどとは、露だに考えていなかった。
テーマーが、私が大好きな焼酎。 しかも、内容があまりにも斬新で面白かったので、是非皆さん方にも紹介したくなった。

ご案内の通り、私は自称焼酎党。
「まず、ビールで乾杯してから、ワインか焼酎か日本酒に移る」 という人が多い。
私は、ツーバイフォー協会の宴会の席上で、ビールやワイン、日本酒などを奨められるままガブ飲みして悪酔いし、駅のベンチで最終列車が行き過ぎても起きられなかったという醜態を演じたことがある。
以来、ビールや日本酒をチャンポンで飲むことを厳しく自戒して禁じてきた。
そして、食事の時はワインだとグラス2〜3杯までを限度とした。
また、宴席の場合は最初は韓国の眞露 (JINRO) 一本槍とした。 しかし、眞露はどこにも置いてあるとは限らない。 そこで、途中から焼酎と泡盛に変えた。
そして、私は焼酎であれば、エチルアルコールの甲類の酎ハイであろうと、芋や麦あるいはソバ、トウモロコシやなどの農産物を原料とする乙類であろうとも構わない。 
価格も、安いもので十分。 残念ながら焼酎の味が分かるほど、舌が肥えてはいない。 早い話が、寝酒として効き目さえ発揮してくれればよいと考えているだけ‥‥。
ともかくビールや日本酒は太るし、カロリーが高すぎて身体に良くない。 しかも悪酔いがするので、以来ほとんどと言ってよいほど、口にしていない。

この焼酎党宣言は、思わぬ効果を上げている。
それは、親戚や友人が送りものをしてくれる時、迷わなくても済むようになった。
つまり、「焼酎でさえあれば、何を送っても喜んで飲んでくれる」。 ということが浸透してきた。 「何を送ったら喜ばれるか」 と、あれこれと考えたり、迷う必要がなくなってきたということ。 
ただ、アルコールに弱い女房殿は、送りモノと言うと 「焼酎」 だと分かっているので、いささかご機嫌が斜め気味。 しかし、最近は割り切れてきたらしい。
それと、どんなに高額な焼酎を送っても、やたらと中小メーカーの数と商品の種類が多いので、飲む本人がどれほど価値のあるなものを貰ったのか 「その有難さが、さっぱり分からない」 という嫌いはあるのだが‥‥。

その焼酎だが、この本によると今まで 「第1次から第3次まで」 の3回のブームがあったと書いている。 それまで、日本の焼酎は約500年の歴史を持ってはいるが、鹿児島の一部で嗜まれていたローカル製品に過ぎなかった。
第1次ブームは1970年代だった。
薩摩酒造が、人気落語家を使い、CMで 「ロクヨン (6−4)」 という飲み方を提案して、市場を一挙に3倍に急拡大させた。 つまり、コップに6割の焼酎と、4割のお湯を注ぐ新提案。 
この提案にハマって、「焼酎=芋焼酎=白波」 と言う概念が一般化した。
そして、1973年には宮崎県の雲海酒造が、芋ではなく原料にソバを用いた 「雲海」 を開発して発売。 香りが柔らかいとの評判が立って、全国的に認知されるようになってきた。
つまり、コメを原料とする清酒は長い歴史を持っているが、焼酎がブームとなって全国区になったのは、せいぜい40〜50年程度の歴史しかない。

そして、第2次ブームは、1979年に誕生した大分の麦焼酎 「いいちこ」 を嚆矢とする。
清酒メーカーであった三和酒類が、新しくエントリーして、「ほぼ無臭で、飲みやすさ」 を売物にしてブームを起こした。 「下町のナポレオン」 は東京にも登場して、焼酎と言えば 「麦焼酎」 と言うイメージを確立した。 これが1980年代の第2次ブーム。
この三和酒類の「いいちこ」に前後して、同じ大分の二階堂酒造が、麦焼酎 「二階堂」 を発売してブームを煽った。
そのころ、私は大分の地場ビルダー・ベツダイと深くかかわっていたので、よく大分まで出かけた。 そして、自然に麦焼酎に馴染んでいった。 たしかに芋のようなクセがなく、抵抗感がまったくなかったので簡単に馴染めた。。
また、宝酒造の 「純」 が大ヒットしたのもこの時期。
甲類の 「酎ハイ」 や 「サワー」 が若者に拡がって行った。 
ホテルなどの自販機には麦焼酎がなく、酎ハイが置いてあったので、私も寝酒としてかなり活用させてもらった。

さて、この第1次ブームや第2次ブームの時に、この著の主役である霧島酒造の名は一切出てこない。
しかし、この本によると、今から99年前の1916年 (大正5年) に、江夏吉助が、芋焼酎の自社での製造・販売に踏み切ったと書いてある。 来年で゛創業100年を迎えるという名のある古い芋焼酎屋さん。
ところが、この初代の吉助氏は、何歳の時に芋焼酎の製造・販売に乗り出したのか。 その商売はうまくいったのか。 売上はどの程度だったか。  また何歳の時に息子に商売を譲って隠居したのか、あるいは不慮の死を遂げたのか‥‥についての肝心の記述が一切ない。 ただあるのは、鹿児島の北西部の市から取寄せていた芋焼酎の販売が思った以上に好調だったので、自分で製造・販売に乗り出したと書いてあるだけ。
せめて販売本数や死んだ年ぐらいは、取材した者の責任で記しておくべき。 著者は日経の記者で、日経BP社に出向中にこの著をモノにしたらしい。

初代の江夏吉助氏のことにはほとんど触れていないが、2代目の江夏順吉氏については詳しく書かれている。 現東大の工学部を1938年に卒業して三井石油合成に入社。 途中陸軍に召集されたが、「石炭から石油を造り出す‥‥」という特命を受けて三井石油に戻されたが、特命は成功しなかった。 そして、敗戦。
順吉が戻った故卿は荒れていた。 芋は貴重な主食で、焼酎も割当制だった。 旧式の設備で造る芋焼酎は、畑で造られる芋そのものの品質が悪かったこともあり、大変にまずい焼酎だった。
「乙種の焼酎は、潰してはいけない。 そのためには品質の向上が欠かせない。 芋焼酎の品質向上を、自分の一生のテーマにしょう」 と順吉は考えた。
そして、1949年に先代の個人免許から法人免許に切替え、霧島酒造を正式に発足させている。
1960年ごろ、鹿児島には500人ほどの杜氏がいた。 もろみづくり、蒸留などの一連の過程での温度管理、芋焼酎の仕込みにはこうした杜氏の経験と勘が頼りだった。 しかし、東大の工学部出身の2代目は、こうした杜氏にオンブしない手法を開発していった。
2代目順吉の口癖は、次のようなものだったという。
「焼酎造りは難しくない。 簡単な作業。 しかし、おいしいものを大量につくることは、大変に難しい」。
家内工業で造る芋焼酎のメーカーは、当時宮城県内だけで120社もあった。 そのほとんどが、年間生産量が10〜20万本 (1升ビン換算で) にすぎなかった。 霧島酒造も、従業員は20人程度の弱小メーカーに過ぎなかった。

しかし、機械を前にすると、「人格が変わる」 と言われるほど、順吉はものづくり、機械作りに没頭していった。
最初にやったことは、戦時中に没収されることを怖れて、自宅の庭に埋めていた20キログラムのスズ40個を掘り出し、スズの延べ板を加工してパイプや冷却塔を製造し、木製の蒸留機を改造した。 原料の芋を仕込むのには蒸気と電気量の使用量が増えるので、いもを細かく砕いてから仕込む 「ダイジェスター方式」 を考案した。 効果は抜群でそれまで1週間かかっていた発酵期間が3日に短縮された。 しかし、生臭い焼酎が出来て、この手法はすぐに諦めた。
また、発酵タンクの容量を、一気に30倍に拡大するということもやった。
また、黒麹から白麹への大転換も行った。
1961年には自動製麹装置を導入し、麹が何の苦労もなくつくれるようになった。
そして、1963年には焼酎業界の先駆けとして大型の最新鋭工場の建設に乗り出した。
この大型工場建設に乗出せたのは、地下水掘りに成功したことが大きかった。 活火山の桜島と霧島山の間に位置する都城市には、大量の地下水を貯めているはず。 そこで秋田からボーリング業者を呼んできて、工場内を掘らせた。 そしたら地下75メートルで固い岩盤に突き当たった。
ボーリング業者は逃げ腰になった。 その固い岩盤の突破を命じたところ、92メートルの地下から大量の綺麗な水が溢れてきた。 近所の人が生活用水として使ってもあり余るほどだった。

しかし、物造りに拘った2代目は、営業に対しては冷淡であった。
「よい焼酎は、営業をやらなくても絶対に売れる。 絶対に東京へ出かけて勝負して見せる」 という信念があった。
そして、晩年は機械熱が冷めて、ブレンドの必要性を認識させられ、「ブレンド熱」 の塊に変身した。 しかし、その折角の優れたブレンドも評価してくれる人々はほとんどなかった。
順吉は、跡取りとして1944年生まれの長男の隆一郎を考えていた。 慶大出の180センチ以上もあるスポーツマンで、誰もが3代目として認めていた。
その3代目予定の隆一郎が、なんと1992年にC型肝炎で48歳の若さで急逝してしまった。 順吉の嘆きは大きかった。
そして、2代目順吉も4年後の1996年には腹膜炎であの世へ。  享年80歳。

同社の売上高の推移を見ると、1970年が1升ビン換算で約200万本。 それが1996年には約900万本へと伸びている。24年間で4.5倍になっている。
この数字だけを見ると、2代目は良く頑張ったと言える。 しかし、この間に第1次と第2次焼酎革命が起こり、霧島酒造のシェアと人気は大幅に下落していた。
そして、2代目と3代目が確実だと目されていた2人に急逝され、急遽次男の夏目順行氏が社長に、3男の夏目拓三氏が専務に選ばれた。
この若い2人が、白麹を再び黒麹に変え、新開発した「黒霧島」 を武器にして幾多の難関を突破して第3次焼酎ブームを巻き起し、業界に君臨してゆく。 
2012年には売上高が約520億円を突破し、三和酒類を抜いて焼酎業界のトップの座についた。
そして、社員数は約500人にも増え、2014年の大卒の応募数は900人にもなり、このうちから29人が採用されるまでになってきている。
そして、「シロキリ」 「クロキリ」 「アカキリ」を中心に女性好みの新商品が陸続と開発され、東京オリンピック時の2020年には1000億円企業になっているだろうと言われるまでに‥‥。
中でも、利益率が自動車などの数パーセントではなく、2桁台を維持しており、純粋国産材の原料手当ての難題も見事にクリアーしている。

まさに、一読に値する中堅企業大躍進物語。


posted by uno2013 at 14:01| Comment(0) | 産業・経営 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。