2013年10月20日

伝記を書きたいと思ったツーバイフォーの3人の巨星。


ツーバイフォー工法がオープン化したのは今から39年前の1974年 (昭和39年)。 来年で40周年記念ということになる。
このオープン化に関して、建設省では澤田光英氏と救仁郷斎氏の歴代住宅局長と、金子勇次郎生産課長、戸谷英世氏などの活躍が記憶に残る。
住宅金融公庫では梶山理事、大西部長の両氏と水谷達郎氏を中心とした若手技術者による《枠組壁工法住宅・共通仕様書》作成グループの泊まり込みによる仕様書作成熱意と、スパン表の作成資金集めに見せた大車輪の活躍が今でも記憶に新しい。
このほか民間では三菱商事の神保氏、ナブコホームズの甕氏、木場の木材青年クラブなど、印象に残っている諸氏の活躍も見逃せない。
もちろんオープン化運動の中核となったホームビルダー協会の若手の面々の活躍は、決して忘れてはならない。 いささか自賛めくが‥‥。

しかし、この多様な諸氏の中で、機会があったら絶対に伝記を書かせていただきたいと私が熱望した人は、3人しかいない。
1人は杉山英男先生。
今から61年前の1952年。 日本の山は戦時中の乱伐によって丸裸。 このため公庫の木造住宅の標準仕様書が出来た時点で、建築学会は、「もはや木造には期待できない。木造よ さようなら、鉄骨造とRC造よ今日は…」と、一斉に木質構造から去って行った。 大学の建築学部では木造の講義が姿を消した。
その時、木質構造の孤塁を守っていた杉山先生の活躍ぶりの一端を、2006年の今週の本音、7月31日付の「杉山先生を偲ぶ会」(上) で、ある程度分かっていただける。
杉山先生が亡くなられたのは7年前の2006年。
その前の年に中越地震が起こり、阪神淡路地震では見られなかった木質構造の新しい破壊現象と、想像も出来なかった耐震性能が提示されていた。 その特筆すべき現象を、筑波大とか信州大の先生方は見落していた。
そこで、その発見を杉山先生に報告し、先生に学問的に解釈していただいて、先生の口から発表していただける日が来るのを、楽しみに待っていた。
まさか、あのゴルフ焼けで元気な杉山先生が、膵臓の病であんなに早く亡くなられるとは考えてもいなかった。 それほど先生の死はショックだった。
しかし、10年前に先生に了解を取っていたにしても、私の実力では先生の伝記を掲載してくれる誌紙が、なかなか見当たらなかったのは事実。

片方厚夫.JPG

杉山先生に次いで、私の執筆意欲をそそったのは北洲の片方厚夫氏と三井ホームの元副社長の岡田徳太郎氏。
片方氏は、創立50周年の記念に書かせて欲しいと考えた。
しかし、私がアプローチする以前に、すでに50周年記念誌編集委員会が発足していて、私などがシャシャリ出る幕はなかった。
この50周年記念誌は良く出来ている。 北洲と片方氏が行ったさまざまなトライ&エラーが隈なく網羅されている。 しかし、あまりにも平面的に列挙されているので、どれがエラーで、どれが成功をもたらしたイノベーションであったかが分からない。
私の知っている片方氏は人が良く、大手の企業人の言うことはすぐに本気にしてしまうオッチョコチョイな面があった。 したがって、実にくだらないトライ&エラーも多い。 
本人も屈託なく、「あれは明らかに私のミスでしたね。 ○○さんがその気になって小声で囁くものだから、これは間違いないと信じた私の大間違いが‥‥。 そんなミスが限りなくあるのですよ‥‥」と、よく笑いとばしていた。

同社は昭和33年3月に、資本金50万円で、北上駅前通りの間口3間、奥行6間の18坪の中古店舗を借りて、自転車1台、リヤカー1台で北洲ベニヤ商会としてスタートしている。
初期の頃の建材小売店としての同社は、ひたすらに資金繰りに明け暮れる毎日。
厚夫氏は健康状態も良くない。 しかも、少しでも資金面で余裕が出るとやたらと支店を出したがる。 ひたすらに事業の拡大しか考えない。 したがって、経理を担当していた苫子夫人の苦労たるや、並大抵なものではなかった。
それが、創業16年目の昭和49年 (1974年) には北上市に本社を新築して移転。 社名をベニヤ商会から 「株式会社 北洲」 に変更し、資本金も4000万円に増資し、支店を含めた社屋の延べ面積は約2万7000坪、社員130人、車両は54台と、東北では1、2を争う建材小売店に成長している。

私は、昭和44年 (1969年) の8月に、「アメリカの住宅産業」 というガリ版刷りのレポートを出版している。 これはアメリカの住宅産業の実態を日本で初めて明らかにしたものとして、建設省をはじめ建材業界から大きな注目を集めた。
松下電工を主力商品としていた北洲は、電工を通じて新しい建材や経営情報を入手していた。その情報の中に、私の著書もまぎれていたのだと思う。
年は明記出来ないが、多分昭和45年 (1970年) 前後の、同社がまだベニヤ商会という名前だった時代に北上市に呼ばれて、同社の取引先の大工さんに、「アメリカの住宅産業における生産性の高さ」 を話したような記憶がある。
ともかく、片方兄弟というのは大変な勉強家で、次男が学者として鳴らしているというのを聞いた記憶がある。 その頃から片方氏の名は、業界に通っていた。

片方氏は、単なる建材の販売にとどまらず、大手の住宅メーカーに対抗するためには、工務店もプラン力やインテリアコーデネイト力をつける必要があるし、積算もコンピューター化して合理化して行かなければならない。また、提携の住宅ローンを揃えないと、大手の営業力には対抗できない。
しかし、建材店がそうした能力を身につけるには、自ら住宅の建築と販売に手を染めない限り絶対にノウハウは体得出来ない。
在来の木軸だと大工さんの方が詳しく、建材販売店の言うことなぞ聞く耳を持っていない。
新しいシステムを構成して身につけて行くには、北米生まれのツーバイフォーに特化するしかない。
幸い、ホームビルダー協会の東北支部で、アメリカから大工さんを呼んできてのツーバイフォー工法の建て方実演を昭和50年 (1975年) ごろに北洲の用意した現場で、100人近く集めて盛大に行っている。
事前の研修会で、「アメリカの造作大工さんは、1つの内部ドアとドア枠の取り付けにたった3分間しかかかっていない」 と説明したら、大工さんから 「信じられない。ウソを言っては困る」 との反撃があった。 その時、片方氏は手を上げて、「本当です。私も見てきました。なんだったら一度アメリカの現場研修にゆきましょうか」 と、助け船を出してくれた。
そして、2年後の昭和52年 (1977年) にツーバイフォーハウスサービス部を設置し、さらに2年後の1979年にはこのハウスサービス部を発展的に解消して、資本金4000万円で竃k洲ハウジングサービスを設立している。

建材販売店が、分譲住宅の分野に進出することに対しては、取引先の工務店から苦情がくることはない。 場合によっては、発注してくれる可能性が高いからだ。
ところが、注文住宅の分野へ進出するということになると、ほとんどの工務店から反発を買う。つまり、競合相手になる怖れがあるから‥‥。
このため、建材販売店が注文住宅の分野へ進出するには、従来の得意先を全て失うほどの覚悟が必要になる。 このため、多くの建材店は分譲住宅の分野には手を出しても、注文住宅の分野には手を出さない。 これが業界の黙秘ルール。
ところが、北洲の場合は工務店の合理化のためにこそ、建材販売店は自らトライしてノウハウを築き、その体得したノウハウを工務店に公開して行くのだという強い姿勢で一貫している。いささかの揺るぎもない。
私が北洲に感動したのは、片方氏は自分の行動に一つも怪しい点がないと確信していたところ。どこまでも正論を押し通していた点。
これは、真似が出来そうで真似のできない立派な態度。
そして、幸運だったのは、ハウス部門の設立の時点で、木質構造に詳しく、省エネ性能にも明るく、デザイン力にも優れた牧子氏に出会えたこと。

耐震性や耐火性に優れているだけでなく、断熱性能に優れていて、しかも大手に負けない独特のデザイン力を持っているということで、同社は岩手県の北洲から昭和58年 (1983年) に仙台市に進出を果たしている。 つまり、一介の建材販売店ではなく、住宅屋としても超一流になったということ。 これは誰にでも出来ることではない。
そして、2年後には社名を竃k洲ハウジングに変更。
ちょうど、その頃だったと思う。
いち早く同社は、積算のコンピューター化に成功している という報を聞いた。
そこで、当時藤和で比較的ITに詳しい技術者2人を連れて、同社の仙台の事務所を訪れ、積算のコンピューター化の実態を教えてもらったことがある。
その教えにしたがって、藤和でも早い時点で積算のコンピューター化を果たすことが出来た。
そして、プランや構造図の作図については、いち早くマックシステムを導入していた井上設計事務所に頼んで1台200万円もするマックをいきなり数十台購入するわけにはゆかず、とりあえず7台を購入してトレーニングを開始したのが平成4年 (1992年) のことだった。
比較的早い時期に作図のコンピューター化が図れたのも、北洲からの積算システムの導入で、下地が出来ていたからだと感謝している。

このように、北洲は当時としてはあらゆる面で最先端を走っていた。
そして、いち早くR-2000住宅に取り組み、平成14年 (2002年) からは、すべての住宅の性能をR-2000住宅仕様に変えてきている。 つまり壁厚は206 (14センチ厚) で、Low-Eペアガラスのアルゴンガス入りの樹脂サッシを標準仕様にしている。
この骨太の一貫性こそ、片方イズムそのものと言える。
ただし、次期社長を選ぶに当たって、片方氏はいろんな面で悩み、苦悩の選択を行っている。
その内面に、どうしても光を当て、企業人の苦しみの葛藤を描いてみたいと私は思った。
しかし、これは叶わぬ願いに終わった。

もう一人の描きたい人物の岡田徳太郎氏を連れて、一度仙台を訪れたいと考えていた。
しかし、90歳を超えた岡田氏を仙台にまで引っ張りだすのは ことのほか難題だった。過去に何度かの事例があるので、万が一のことを考えると、なかなか決断が下せない。
それにしても、好漢・岡田徳太郎氏の伝記を掲載したいという誌紙が現れない。
岡田氏は基本的にはサラリーマンだったけれども、計数に明るくて突飛なアイディアを企業の中で完全に活かしきった。 ツーバイフォー業界だけでなく、いち早く女性に活躍の場を与え、インテリア産業界を育てた功績は大。 これほど自在な発想を具現化した企業家は珍しい。
その2人の世紀の対談のチャンスが永遠に失われた。

一つの時代が、完全に終わったということであろう。

posted by uno2013 at 09:10| Comment(0) | 産業・経営 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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