2013年10月05日

露に比べ1/10の日本のGDP。6回で13億円の国債を発行した是清の偉業。


幸田真音著「天佑にり」(上)(下) (角川書店 各1600円+税)

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北海道新聞、河北新報、東京新聞、中日新聞、西日本新聞、神戸新聞、徳島新聞で1年余にわたって掲載された高橋是清伝。 連載中から愛読された諸氏も多いと思う。
ともかく、小説としては今年の最大の収穫であることは間違いない。
私も、いつの時点で取り上げようかと迷った。
それと、この長編の小説を解説するには、大変な紙数が必要。 すでに多くの諸氏が愛読された後で、やたらと紙数を費やして紹介するのもおかしい。 ともかく、これほど悩まされた小説はない。

金融関係の人物伝としては、高杉良氏の中山素平頭取のことを書いた「日本興業銀行」と、江上剛氏が描いた「我、弁明せず」の三井銀行の元頭取・池田成彬。さらには西川善文氏の自伝「ザ・ラストバンカー」が光っている。
この著者は金融畑の出身だけあって、今までの単なる高橋是清伝とは一味も二味も違って、100年前の日本経済の金融政策に光を当てているのが非常に参考になる。
ともかく、産業人としては必読の書であることは間違いない。

高橋是清は、今から159年前に、絵師の子として生まれ、数日も経たないうちに仙台・伊達藩の足軽・高橋是忠の養子に出されている。幼名は和喜次。
足軽の子だと大した教育は受けられないが、養祖母・喜代子の計らいで菩提寺の和尚の手伝いに出されたのが縁で、これからは英語が喋れる人物が必要だと痛感した藩は、横浜の外人家庭に2人の子供を派遣させることになった。10歳の時、和喜次はその1人として候補に挙がった。その時、喜代子は私がついて行きますと賛同し、横浜に小さな家を藩に建ててもらったのが和喜次の出世の始まり。
その家が火事にあい、江戸の藩邸に引っ越したが、何とか英語を覚えたいとイギリス系銀行のボーイになった。英語で話すことには自由になったが、同時に13歳にして酒の味も覚えてしまった。
このため、藩として5人をアメリカに派遣して英語を習わせようとなった時、和喜次の悪行が藩に知れて、メンバーから外された。 それを何とか頼み込んでやっとサンフランシスコに辿りついたが、5人のうち3人の大人はホテルへ。2人の子供は旅行を斡旋したアメリカ家庭でホームスティをすることになった。
ところが藩に旅行を斡旋した家庭は、南北戦争で奴隷制度が禁止になったにも関わらず貧乏人を奴隷として売り飛ばしている悪徳白人。 喜多次も売り飛ばされたが、アメリカ人の領事のおかげで何とか脱出できた。

しかし、この時日本では幕府が潰れ、薩長連合が日本を支配する維新が起こった。
仙台藩は賊藩となり、ともかく藩ではアメリカ生活の面倒を見てくれないことがわかり、何とか船賃を工面して帰国へ。 しかし、賊藩の人間だと分かれば逮捕される。 そこでシスコで買った洋服を着て、アメリカ人になりすまして運上所の関門を何とか通過した。
だが、今度は安住できるとこが無い。 藩邸にも戻れず、宿賃も払えなくなり、思い切って薩摩藩の森有礼を訪ねた。 森はこれからは英語が話せる人材が必要だと分かっていたので、喜多次ら3人を書生にしてくれた。
そして、翌明治2年には外国語を教える神田一ツ橋の開成所を大学南校として開所し、3人をその大学南校の教官三等手伝いとして採用してくれた。
ともかく、14歳の時から農商務省にスカウトされる26歳の時までは、得意の英語を武器に学校の先生とか翻訳の仕事で生活の糧を得ている。
大学南校に採用された年に森有礼は再度洋行に出ており、その間に和喜次の酒が進み、根津の遊郭に遊ぶようになり、また福井藩の下級生に騙されて16歳で250両の借金を背負うなど、この時期の和喜次の行動は何一つ面白くない。
そして、21歳の時に最初の結婚をして、是清と名を改めている。
そして、予備校を作って校長になったり、相場に手を出して62商会を作り4ヶ月で廃業するなど、かなり乱れた生活。

そして、紹介するツテがあって明治14年 (1881年) に文部省に入所。
ところが農商務省からスカウトがあり、数ヶ月で農商務省へ鞍替え。 ともかく諸外国では商標登録条例と発明専売規制が明確になっている。 なんとかこれを企画立案して日本で法案を通したいと考えていたので、渡りに船と農商務省へのスカウトに応じた。
この商標条例が成立するまでには3年近くかかったが明治17年 (1884) には法案が成立した。 そしたら3ヶ月で670件もの申請があった。 この年妻と幼児が死産。
そして、翌年4月には専売特許条例も成立している。
そして、その年の11月にはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツへの視察辞令が出され、1年近く知的財産に関して先進国を視察し、翌1986年に帰国するやいなや、特許局の独立へ向けての動きを開始している。
明治21年 (1888年) に工業所有権保護条例が施行され、独立した特許局の新庁舎が築地で始められるなど、是清は特許局長として花盛りであった。
しかし、好事魔多しである。 当時まだ日本は銀本位制。 その有力な銀鉱山がペルーで売りに出されているというニュースが井上馨農商務大臣を通じて入り、その官民の出資・開発グループの代表に是清はまつり挙げられる。 しっかりとした調査もしないままに、ペルー視察となった。
ところが、現地に入って見ると鉱山はとっくに廃坑になった後。 そしてこの鉱山をしっかり試掘調査したという田島という技術者に聞いてみると、試掘も何もやっていないペテンだということが判明。 25万円の出資のほとんどを田島というペテン技術者が外国へ持ち逃げ。 このため、是清自身に1万6000円もの債務が残った。
このため、1527坪あった家屋敷を売り払い、特許局長も引責辞任して、すぐ近くの家賃6〜7円の長屋へ引っ越しした。 私財と職の一切を失った。

意気消沈していた是清に、声をかけたのが当時日銀総裁の川田小一郎。 
3時間ばかりペルー事件の顛末を聞いてくれた後で、「もう一花咲かせて見せる気はないか」 と問うた。 もちろん、働かないと食ってゆけない。 ただ、今まで官職ばかりを歩いてきたので、今度は民間の実業界で働きたい。 そして、英語に関する教育以外は身に付いたものが無いので、「何が何でも現場に入る丁稚奉公から始めさせていただきたい」 と願い出た。
「山陽鉄道の社長職の話があるのだが‥‥」と言われたが、即座に断った。
「本当に玄関番でいいのか」 と聞かれ、「それから始めないと実業の世界がわかりません」 と答えた。 
そして半月も過ぎた頃に、再度川田総裁から呼び出しがかかった。
「今、日銀が本庁舎の新築工事をやっている。 その建築所の総監督が安田善次郎。 技術部の監督が辰野金吾という昔の君の教え子。 その事務部の支配人にな」る気はないか。 ただ、職務上は、辰野金吾の下ということになるのだが‥‥」 といった。
今では、日銀は官庁以上の官職だと考えられている。 
ところが、当時は日銀は民間銀行の一つに考えていたらしい。 つまり、官職というのは大蔵省とか農商務省、特許局などを指すのであって、一般には日銀は実業界と考えられていたようだ。
是清は、日銀の建築現場から仕事に入れることを本心から喜んだ。
6月1日に辞令が出て、年俸1200円。 日銀の正式社員ではなく建築所の社員としてではあったが‥‥。

日銀の本庁舎は地下1階、地上3階建の石造の西洋建築。 明治23年 (1890年) 9月に着工し、設計は辰野金吾で工事は大倉組が請け負っていた。
着任早々技術部の人間が 「鉄製の棒を大至急発注してくれ」 と、矢の催促。 ムリヤリ納入したら、倉庫の隅に同じ鉄製の棒が山積みに。 そこで辰野氏に事態を説明して、「今後は在庫管理は私に任せてくれないか」 と言ったら、資材管理が不得手な辰野氏は喜んでOK。 資材をきちんと整理しだすと発注ミスが減り、工事も手待ちがなく順調に。
さらに調べてみると輸入資材は大倉組に任されており、為替相場の変動に合わせて請求期日を操作して、不当な利益を掠めていることも発覚。
ともかく、時間があるので資材管理だけでなく、銀行業務全体についても猛勉強。 何しろウィクリー・タイム、エコノミスト、バンカー・マガジン、シカゴ・トリビューン、ロンドン・グラフィック、ニューヨーク・ヘラルドなどがいつでも読める。 基本知識が確実に蓄積されてゆく。
しかし、その半面で、現場の工事の進捗状況が気になるので辰野氏に聞いてみた。

そしたら、「工期は1年半遅れているし、予算は27〜28万円はオーバーしそうだという。
それよりも濃尾大地震で、全館石造でやることに危惧を感じて、2階は普通レンガ造とし、3階は軽量レンガ造にする考え。鉄骨を入れてトロを流し込めば工期も早くなり、予算も6〜7万円のオーバーで済む予定」 とのこと。
そして、川田総裁に工期のことを聞かれた時、辰野氏から聞いたことを話したら大カミナリが落された。
「私に何も相談なく、石造をレンガ造にするのは絶対に許さない」 と。
慌てて引き返して辰野氏に聞くと、「安田監督に話をしたので、総裁に通じていると思った」 という。 一方、安田監督は、「こんな大切なことだから、当然辰野氏から総裁に打診したものだと考えていた」 という。
そして、総裁へ鈴をつける役を是清に押し付けられた。
そこで、石造の実態と、普通レンガ、軽量レンガの実際の施工法を辰野氏に頼んで実演してもらった。
そして、いろいろ考えた結果、石を10センチ厚くらいに薄く切り、レンガに貼れないかと辰野氏に提案してみた。 細い鉄筋を入れれば可能だということがわかった。

その結果を川田総裁に話をしたら、大いに納得してもらうことが出来、難問が解決した。
ついでに1万円の余分な予算と、工事を大倉組の請負から建築所の直営にしてほしいと川田総裁に頼んだ。
大倉組は、大阪の4人の親方に丸投げしている。 そして、大阪から連れてきた職人がたびたび賃上げを求めてサボタージュしているのが工期遅延の大きな原因だと分かった。
したがって、直営にして4面の壁を4人の親方に発注して競わせる。 工期が1日遅れると500円の罰金を払ってもらう。 逆に1日早いと500円の報奨金をそれぞれに払う。
1万円の予算は、その報奨金のため。
この是清案は、川田総裁、安田総監督、辰野監督も喜んで賛意を示してくれた。 以来、本店の新築工事は順調に進んだ。
こうして、是清の建築所の1年3ヶ月の見習い期間が終わった。
そして明治26年 (1893年) 9月に、日銀の正社員になるとともに、下関に新設された《日銀西部支店長》として赴任して行く。
上巻はここまでだが、とくに建築所における問題発見と解決策のひらめきに、大変に学ぶべき点が多々ある。

下巻は、西部支店長としての民間金融機関と民間企業の活性化の努力の数々と、川田総裁の指名で、41歳の時に横浜正金銀行の支配人となって国際市場へ乗り出してゆく様を、詳細に取り上げている。
しかし、圧巻は何と言っても日ロ戦争で日本政府はカネがなく、日ロ戦争がはじまれば日本が負けることが分かっており、日本の公債発行は困難だと世界中が知っていた。
何しろGDPは、日本はロシアの1/10に過ぎない小国。
その困難な仕事を時の井上蔵相から明治37年 (1904年) に懇願され、特命として受けざるを得なくなった。
日ロ戦争については、司馬遼太郎氏の、「坂の上の雲」 などで国民に広く知られているが、是清が荷なった述べ6回、約13億円に及ぶロンドンを中心とする公債発行の成功がなかったら、日本の勝利はなかったといっても過言ではない。
いままで、多くの高橋是清伝が書かれている。
しかし、この公債発行の成功の大きな原因となったクリーン・ロープ商会のシク代表との出会いなどを、ここまで綿密に書かれたものを読んだことがない。
著者が金融関係の出身で、国際金融の実態に明るいから、ここまで書けたのだと思う。

この内容をもっと詳細に説明したいが、紙数が限られている。
賢明な皆さんには、是非読んでいただきたいと熱望します。
私には、「坂の上の雲」 よりも、はるかにこの本の下巻の当該部分が面白かった。

そして、多くの伝記が触れているように、1年と9ヶ月の日銀総裁、84歳で6度目の大蔵大臣の就任をはじめ、総理大臣と農商務大臣を各1回経験した類まれな才能。
そして、著者が 昭和8年〜昭和11年 (1933〜1936年) の実質成長率が7.2%で、インフレ率2%という、日本が最も安定した時期を演出したのは、まぎれもなく高橋是清であったという指摘には納得させられる。
そして、過剰な軍事支出は避けるべきだと一貫して叫び続け、低利の資金が民間企業に流れることを最優先に考えた骨太の好漢。
前年度より軍事費を46.1%から45.8%へと下げたがために、いわゆる226事件で昭和11年2月26日に、軍人の銃声に消え去った命。
嗚呼。



posted by uno2013 at 23:11| Comment(0) | 書評(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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