2013年03月25日

山手線内側の面積に匹敵するまで自然林を拡張する壮大な夢!!


C・W ニコル著 「アファンの森の物語」 (アートディズ 1400円+税)

アファン.JPG

日本の国土の70%近くが森林で、森を活性化させることこそCO2の削減につながり、エネルギーの国策化を図る重要なポィントであり、自然や水環境を守る核心的な行動だということは、日本人だと誰もが知っている。
しかし、私どもは森のために 何かをしただろうか ?
つまり、観念的には森の重要性をイヤというほど知らされている。 だか、具体的な行動を起こした人は極めて少ない…。

イギリス人の C・W ニコルという人物の存在は、ほとんどの人が知っている。
氏が野尻湖の近くの黒姫山の山林を買い、山での生活を始めているということも……そこはかとなく知っている。
そして、モノ好きな人は、氏の70冊近い出版物のなかの2〜4冊程度は読んでいるはず。
私は そうした平均的な日本人の一人にすぎなかった。
氏の著作は何冊かを読んだが、やみくもに漁ってみたいという感動を覚えたことがない。
氏に対して特別な感情……つまり、尊敬するとか、贔屓にしょうなどという考えは一向に起こらず、欧米人にはナチュラリストが結構多いな、と感じていた程度。
したがって、この著書も「ついでに読んでみるか…」と、気軽に読み始めた。
ところが、途中からイカ釣り竿に大物のブリがかかったように グィーッと引きこまれてしまった。

ニコル氏は、1940年にイギリスの南ウェールズのニースという小さな町で生まれた。
と言われても、ロンドンとその近郊しか訪れたことのない私には、ウェールズの片田舎のニースと言われても どんな町なのかさっぱりピンとこない。
そこでネットを開いてみたらイギリスというのは北のスコットランド (首都 エディンバラ)、南東のイングランド (首都 ロンドン)、南西のウェールズ (首都 カーディフ) と、それと海を隔てた北海道ほどの大きさのアイルランドの北側部分の帯広ぐらいの広さの北アイルランド (首府 ベルファスト) だけがイギリス領で、この4つのカントリーから構成される立憲君主国のことをイギリスと呼ぶことがわかった。

イギリスには高い山がない。ウェールズ地方では1085メートルのスノードン山が最高峰。
しかも、イギリスは緯度が高い。 
東京が36°、札幌が43°に対して南のウェールズでも51°、北のスコットランドに至っては56°以北。 したがって、イギリスでは標高が高い山頂は木どころか草も生えておらず、むきだしの岩肌続き。
ニコル少年は、叔母がアファン・アゴールドという炭坑町にコテージを持っていたので良く遊びに行った。また母親の祖父も第一次世界大戦前はこの街で石炭を掘っていた。
第二次世界大戦後、石油ブームが始まるまでは日本と同様にイギリスでも石炭は大切な基幹産業。 
アファン・アゴールドは47も炭坑を持つ賑わい谷で、綺麗に手入れされた集合住宅が並び、町や家には花が飾られ、活気に満ちていた。
だが、その一方で、醜いボタ山があちこちに築かれていたことも事実。
したがって、ニコル少年が生まれた小さな町は、必ずしも風光明美な田舎の里だったという訳ではなさそう…。
しかし、子どもの頃から樹木が大好きで、木には感謝と愛を感じていた。したがってよく山へ遊びにいった。

そのニコル氏が初めて日本を訪れたのは1962年、22歳の時だった。
14歳からイギリスで柔道を習っていたし、神秘的な空手の話を良く聞いていた。 しかし、残念ながらイギリスには空手の師範がいなかった。 
そこで、カナダ政府による3回目の北極体験を終えた時、懐に余裕があったので日本へ足を延ばしてみた。 そして、講道館での東京暮らしが始まった。
日本人は礼儀正しく、正直で、親切だったので直ぐに好きになった。 
そして、何よりも種類が豊富で新鮮な食べ物が気に入った。 サシミやスシだけでなく、納豆も最初から大好物。
しかし、17歳の時から人生のほとんどを自然の中で過ごしてきたニコル氏。
北極探検以外の時も、小さな島にわたり、渡り鳥の研究を手伝い、ライフルでウサギを撃つような暮らしを続けてきた。
このため、2ヶ月も東京での生活を続けているうちにストレスが溜まってきた。
先生に相談したら、正月明けに仲間が日本アルプスへ連れていってくれることになった。
北極へ3回も訪れているので寒さや雪には慣れているという自信があった。
ところ、日本の雪の柔らかさと深さには心の底から驚かせられた。
それ以上に驚いたのは、日本の山にはブナ、ナラ、カエデ、ヤマザクラなど沢山の種類の樹木が深い雪の中に植えていたこと。
欧米人にとっては、積雪の多い場所に育つ木というと、トウヒ、スギなどの針葉樹しか浮かんでこない。そのほかに寒さに強くて成長の早いカバ、ヤナギ、ハンノキは浮かんでも、ブナ、ナラ、カエデなどは想像外。

この最初の山歩きで味をしめたニコル氏は、以来時間がとれると山歩きか小島に渡った。
また東京暮らしと言っても住んでいたのは郊外の秋津で、足を延ばせばいつでも森へ行くことが出来た。
そのニコル氏にとって、「完全に日本の自然の虜にさせられた」 決定的な瞬間があった。
それは1963年の6月のこと。 
とても蒸し暑い日が続き、シャワー程度では我慢が出来ず、「どこか涼しいところへ行きたい」と言ったら、冬山へ連れて行ってくれた仲間が相談し、日本語がまだ達者ではないニコル氏を上野駅から電車を乗り継いで分からない場所へ連れて行ってくれた。
山道を2時間程度歩いたが、一向に涼しくならない。
しかし、標高1000メートルにまで登ったら、そこには想像を超える別世界が拡がっていた。 涼しくて心地がよい場所…。 それは古代のブナの森だった。
イギリスでもブナの林は何度か見たことはあったが、いずれも人口林。
これに対して天然林の木々はゴチック建築の柱よりもはるかに優美で、若葉を透して踊り輝く陽光はステンドグラスよりも美しかった。
どのような建築物も、このブナの木々にはかなわないと思った。

あちこちから、水の音が聞こえてきた。生命と喜びにあふれるメロディ…。
木の下では花が咲き、あらゆる場所で鳥が楽しげに唄っていた。
私は鳥肌が立ち、知らない間に涙が浮かんできた。
このような古代のブナの林が、私の祖国 イギリスからほとんど姿を消してしまったことに対する悔しさの泪だった。
目の前に拡がる姿は、1000年前のウェールズの姿そのものではないか ?
どうして先祖は、子孫の私たちのために この光景を残すように戦わなかったのか ?
炭をつくるために木々は伐り払われ、木の船を作るためにオークとニレは伐採された。
そのほかの森は、工業と鉄道、羊のために消えていった。
森が消えたイギリスでは、900年前に野生の熊が絶滅。
だが、私の悲しみと喪失感は、目の前の木々に出会えた深い喜びと感謝で消されていった。
ウェールズ人の若者は、この感激を味わうために日本にやってきたのだ。ここまで連れてきてくれた先輩と、自然の宝を守ってきた日本人に心から感謝をした。
これが、私が本当の意味で日本に恋をした 記念日であった。

それから22年後の1985年に、ウェールズの議会の仕事をしている森林生物学者から、ニコル氏にアドバイスを求める一通の手紙が届いた。
内容は、アファン・アルゴートを森林公園にしようと考えている。そして、その公園の一角を日本の森林公園にしたいと計画中。 ついては、ウェールズの風土気候に合う日本の樹木を推薦して欲しい、というものだった。
アファン・アルゴードは、戦後のイギリスの燃料革命で 石炭から北海油田への切り替えによって鉱山が閉鎖された。
多くの男たちは仕事を失い、町は寂れ、家々は荒れ果てていった。
それに、追い打ちをかけるような事故が1966年に起こった。
近くの村でボタ山が崩れて20軒の民家と小学校を丸呑みにされ、農場は破壊した。 死者は大人22人、子ども116人にも及ぶ大災害だった。
そのアファン・アルゴードが森林公園に… ?!

信じられない気持でニコルは故郷へ帰った。 
公園のチーフ・レンジャーは、車で丸一日各所を案内してくれた。
ボタ山がくずれないように まず重機で傾斜を均し、熟成させた鶏糞肥料をたっぷりの泥水と混ぜてボタ山に散布した。 そして、強い根が生える草のタネを4種播いた。
黒いボタ山の表面にかすかな緑が芽生える頃に、風や鳥、動物が沢山のタネを運んできた。
表土が緑になると、今度は成長の早い樹木の苗が植えられた。 
そして、やがて長生きする木に場所をゆずる。
最初は10ヘクタールから始まった森林公園。
植物が成長するにつれて肥えた表土がつくられ、ハツカネズミ、ハリネズミ、キツネ、イタチ、リス、シカなどがふえて、森を賑やかにした。 そして、フンの中からありとあらゆるキノコの胞子が目を覚ます。
死んだ土がゆっくり生き返り、谷が緑になるにつれて川の流れは澄み、魚が戻り、鳥が歌を唄う。 それを見て、人々は町へ戻り始めた。
空き家が現代的に改修され、谷に命が戻り、その地が森林公園に指定されると訪問客が数千人単位でやってきた。
この風景を目撃して、ニコル氏は自分が日本で果たすべき役割が、具体的にはっきりと見えてきた。

そして、新居を建てようとしていた黒姫山の森が、開発業者に買い取られようとしているのを知って、家の建築計画を棚上げにして、1986年に初めて森を買った。
以来、執筆活動や講演活動で得られる収入のほとんどを森の買収資金に充てている。
日本国籍を持っていなかったニコル氏は、当初は登記名を日本人の夫人名としていた。
しかし、1995年に日本国籍を取得してからは、自分名義にすることが出来た。
だがニコル氏は、日本の森を個人の資産にするつもりはなかった。
2002年にそれまで買い集めてきた森を長野県に寄贈して財団にすることにした。
その財団名をどうするかという時に、ニコル氏は自分に指針を与えてくれたアファン・アルゴードと姉妹協定を結び、「アファンの森」 と名乗ることにした。
正式名称は、「C.W ニコル  アファンの森財団」。
そして、ニコル氏は、今後も森を買い求めて、イギリスのアファン・アルゴードのように100万kuまでは行かなくても、なんとか半分の50万kuにまで持ってゆきたいと頑張っている。
山手線内の広さが63〜65万kuといわれているが、それに匹敵する森を一人のウェールズ人が音頭をとって、美しい環境をつくり続けてくれているという事実には、思わず頭が下がる。

私の解説は、ニコル氏が如何にして日本の山に惚れたか。 なぜ「アファンの森」という名を冠したのかに偏重しすぎた。
しかし、この本を読んでもらえば、私が解説した部分は全体の1/10程度だということが分かってもらえる。
内容はもっと多面的で面白い。

日本の林野庁が第一線のレンジャー部隊を育成するのではなく、サラリーマン役人を食わせるために知床の天然林のミズナラを伐ったり、尾久島の急斜面の古い尾久杉をことごとく伐ったことを、心の底から怒っている。
そうかと思えば、東大の富良野の演習林の林長、通称「どろ亀先生」こと高橋先生との交遊とその貴重な教えの数々。
著者の愛する熊との交流とその生態。 厄介なウサギたち。 恐ろしいスズメハチとの戦い。 「弥生池」と「カワセミ池」の誕生。 歓迎出来ない盗人という名の森の客人。 鳥を森に呼び戻す巣造り作戦。 なんとか誕生させたレンジャー学校。 「日英グリーン同盟」の成果。 チャール皇太子のアファンの森の訪問記。 黒姫山の学習センターの完成。 両陛下にお会いできた喜び。 東北大震災と「東松島の森の学校」の開設。 この27年間に大きく育って黒姫山の森の尽きない恵み。 アファンの森の新しい事業……。

この本は、是非買って読んで頂きたい。
そして、森に対して、私たち都会人も共通の認識を持ちたいものだと願う。



posted by uno2013 at 11:59| Comment(0) | 書評(その他) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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